建仁寺と禅

簡素に生きることが、一番の贅沢

最小限、最低限のもので生活していくというのが私たちのやり方ですね。
贅沢というものは煩悩、妄想であって、それを外すというのが私たちの大きな目標です。眠るのも最低限。寝る場所も畳一畳。寝て一畳、起きて半畳といいますから。
修行道場の禅堂では、みなの生活するところは本当に畳一枚が自分の場所として与えられ、就寝も食事も座禅もそこで行います。持ち物は体にくっつけられるものだけ。余分なものは持たない。それでじゅうぶん、生活できるんです。我慢しているわけではない。不自由ではないんですね。

簡素に生きる。これがいちばんの贅沢だと思います。なかなかできないかもしれませんが、やってみると一番の贅沢だということがわかると思います。満足の上限をおさえれば、心穏やかでいられます。
寒い時に寒くなる。当り前のことです。でも、暖房を入れたら、少しでは満足できない。暑い時にも中途半端な涼しさでは満足できない。いっそのこと暑いときには暑い生活をしてしまえばいいんです。庭に水をうつ。
それで涼が得られたんですからね。

臨済宗 建仁寺派管長
小堀泰巖

建仁寺の仏様

御本尊

本尊
十一面観音菩薩坐像(方丈)

十一面観音菩薩坐像は今から約四百年前、徳川二代将軍・徳川秀忠公の娘である東福門院(御水尾天皇の中宮で、明正天皇の生母)に御寄進を頂いた大切な寺宝であります。

十一面観音菩薩
御本尊
釈迦如来坐像

釈迦如来坐像(法堂)

法堂須弥壇上に安置される釈迦如来坐像である。右手上に定印を結び、結跏趺坐(けっかふざ)する。江戸時代の慈本参頭の『東山雑話』に建仁寺仏殿の本尊はもと越前国(福井県)弘祥寺の像で、永源庵主で細川元常三男の玉蜂永宋(1542〜82)が求め安置したとあり、これを信ずれば、この三尊像は十六世紀後半に越前からもたらされたことになる。
両脇に安置されるのは、阿難・迦葉像である。共に釈迦十大弟子のひとりで釈迦滅後の教団統率者となった。左脇で合掌する若相の阿難は多聞(智慧)第一、右脇の合掌した手の指を組む老相の迦葉は頭陀(ずだ、衣食住にわたる貪欲をはらう行)第一と称された。二人は釈尊滅後の王舎城での第一回仏典結集の中心となった。中尊釈迦如来坐像とともに16世紀に越前弘祥寺から移安されたと伝えられる。

建仁寺の歴史

建仁寺は建仁二年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称します。
創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。
その後、正嘉元年(1258年)東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなりました。
正元元年(1259年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。
やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えます。
その後、天文の大火により諸塔頭及び法堂が焼失したが、ようやく慶長4年(1599年)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈を移築し復興が始まり、徳川幕府移行後も保護を受け堂塔が再建修築され、制度や学問が整備されます。
明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となります。
また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在にいたります。

建仁寺年表

1202年
(建仁二年)
源頼家、京都に建仁寺を創建。6月、建仁寺に真言・天台・禅の三宗を併置
1205年
(元久二年)
建仁寺、官寺となる
1215年
(建保三年)
7月5日、栄西、建仁寺(一説に6月5日、寿福寺)にて寂
1246年
(寛元四年)
宋僧蘭渓道隆・義翁紹仁、来朝
1258年
(正嘉二年)
5月14日、円爾弁円(聖一国師)、建仁寺(第十世)に住し、火後頽廃した諸堂を修復
1259年
(正元元年)
蘭渓道隆、建仁寺(第十一世)に住す
1305年
(嘉元三年)
冬、方丈再建
1341年
(暦応四年)
8月23日、五山位次評定。建仁寺は第四位
1363年
(貞和二年)
3月23日、青山慈永、建仁寺に住し、法堂を創建
1386年
(至徳三年)
7月10日、京・鎌倉五山位次決定。建仁寺は第三位
1419年
(応永二十六年)
8月、「建仁寺式法」制定。10月9日、「山門条々規式」制定
1514年
(永正十一年)
3月5日、月舟寿桂、開山栄西禅師三百年遠諱を厳修
1599年
(慶長四年)
瑶甫恵瓊、安芸国安国寺より方丈を移築
1615年
(元和元年)
7月25日、古澗慈稽・三江紹益・利峰東鋭、硯学科を受ける。「五山十刹諸山之諸法度」制定
1628年
(寛永五年)
三江紹益、浴室を再建
1664年
(寛文四年)
2月10日、顕令通憲、開山栄西禅師四百五十年遠諱のため、前年から開山塔修理、合わせて祖像を新彫。この日、開眼法要をなす
1669年
(寛文九年)
11月、仏殿の東北に鐘楼創建
1872年
(明治五年)
6月30日、荊叟東玟、建仁寺派初代管長となる
1877年
(明治十年)
妙心寺玉龍院から開山堂客殿を移築
1881年
(明治十四年)
7月、石窓紹球、第二代管長となる
1889年
(明治二十二年)
5月15日、龍関古鑑、第三代管長となる
1892年
(明治二十五年)
黙雷宗淵、第四代管長となり、10月20日開堂
1913年
(大正二年)
5月5日、開山栄西禅師七百年遠諱を一年繰り上げて厳修
1921年
(大正十年)
7月、茶席「東陽坊」、開山堂の北側から方丈西北の現位置に移転
1923年
(大正十二年)
遠江安寧寺の三門を譲り受け、望閣楼を再興
1931年
(昭和六年)
6月3日、頴川恵恂、第五代管長となる
1940年
(昭和十五年)
12月、方丈再建落成。大書院(黄龍窟)、隠寮(清涼軒)新築
1946年
(昭和二十一年)
4月1日、夾山泰祐、第六代管長に就任
1954年
(昭和二十九年)
4月1日、益州宗進、第七代管長に就任。
4月20日、四頭茶会始まる
1964年
(昭和三十九年)
4月5日、開山栄西禅師七百五十年遠諱厳修
1989年
(平成元年)
8月5日、葆州素堂、第八代管長に就任
1999年
(平成十一年)
8月5日、泰巌宗運、第九代管長に就任
2002年
(平成十四年)
3月12日、老朽し解体されていた、浴室を境内北東から南東の位置に移築復元。
4月14日、法堂大天井『双龍図』(小泉淳作筆)の開眼法要。
10月15日、建仁寺開創八百年慶讃大法会厳修
2011年
(平成二十三年)
1月7日、大鐘楼修復落慶
2012年
(平成二十四年)
1月17日、三門「望閣楼」修復落慶。
3月30日、四頭茶会、京都市無形民俗文化財に登録
2013年
(平成二十五年)
1月17日、開山堂楼門「寶陀閣」修復落慶。
10月10日、大方丈修復落慶
2014年
(平成二十六年)
6月5日、開山栄西禅師八百年大遠諱厳修

栄西禅師

開山千光祖師明庵栄西(みんなんようさい)禅師。永治元年(1141年)4月20日、備中(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として誕生しました。
十一歳で地元安養寺の静心(じょうしん)和尚に師事し、十三歳で比叡山延暦寺に登り翌年得度、天台・密教を修学します。 そののち、宋での禅宗の盛んなることを知り、二十八歳と四十七歳に二度の渡宋を果たします。
二回目の入宋においてはインドへの巡蹟を目指すも果たせず、天台山に登り、万年寺の住持虚庵懐敞(きあんえじょう)のもとで臨済宗黄龍派の禅を五年に亘り修行、その法を受け継いで建久二年(1191)に帰国しました。
都での禅の布教は困難を極めたが、建久六年(1195年)博多の聖福寺(しょうふくじ)を開き、「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」を著すなどしてその教えの正統を説きました。
また、鎌倉に出向き将軍源頼家の庇護のもと正治二年(1200年)寿福寺が建立、住持に請ぜられます。
  その二年後、建仁寺の創建により師の大願が果たされることになりました。
その後、建保三年(1215年)7月5日、七十五歳、建仁寺で示寂。護国院にその塔所があります。
また師は在宋中、茶を喫しその効用と作法を研究、茶種を持ち帰り栽培し、「喫茶養生記(きっさようじょうき)」を著すなどして普及と奨励に勤め、日本の茶祖としても尊崇されています。

1141年 一歳 4月20日備中に生まれる
1148年 八歳 出家を志す
1151年 十一歳 安養寺・静心和尚に師事
1153年 十三歳 秋、叡山に登る
1154年 十四歳 落髪して栄西と称す
1157年 十七歳 静心没す法兄千命に従う
1159年 十九歳 叡山有弁に従い台教を学ぶ
1163年 二十三歳 叡山を下る
1167年 二十七歳 大山寺基好から密乗を受く
1168年 二十八歳 阿蘇山にて入宋渡海を祈願
4月入宋、9月帰朝
座主明雲に天台章疏を呈す
1169年 二十九歳 備中に清和寺を建立
1175年 三十五歳 今津誓願寺創建縁起を起草
1187年 四十七歳 再入宋・虚庵懐敞に参ず
1191年 五十一歳 虚庵懐敞から印可 7月平戸葦浦に帰着
1192年 五十二歳 筑前香椎に建久報恩寺建立
初めて布薩式を行う
上京して禅宗を唱う
1195年 五十五歳 聖福寺創建 開山となる
1198年 五十八歳 興禅護国論を撰す
1200年 六十歳 鎌倉・寿福寺 住持となる
1202年 六十二歳 建仁寺創建 開山となる
台・密・禅の三宗併置
1204年 六十四歳 建仁寺僧堂造営
日本仏法中興願文を草す
1206年 六十六歳 東大寺勧進職に任ぜられる
1207年 六十七歳 明慧、師に参請す
1211年 七十一歳 喫茶養生記を撰す
1214年 七十四歳 道元、栄西に相見す
1215年 七十五歳 7月5日 建仁寺に寂す